ともあれ、うちの国の伝統では、男は、子供から直接おっさんになっていた。少なくとも江戸以来の庶民の伝統ではずっとそういうことになっている。私自身、その系譜に属している。

 それが、明治時代に漱石や鴎外みたいな人たちが西洋の文学や哲学を取り入れる時に、「青年」という概念も一緒に導入した。恋に悩み人生の意味を模索し、真実を求めて煩悶しながら成長する存在としての青年。それを、当時の高等遊民として作品の中に具現化した三四郎あたりに重ねあわせたわけだ。

 が、実際のところ、男が「青年」として生きる状況は、旧家のお坊ちゃまの帝大生に許された特権みたいなもので、青年は日本の伝統的な社会に矛盾無く組み入れられるピースではなかった。結局、その実態は、舶来の音楽や南蛮渡来の絵画や鹿鳴館のダンスと同様、かなりの度合いで輸入品だったということ(おそらく)なのである。

 現在、明治と同じ意味での高等遊民は絶滅した。
 現在の学生さんは、「青年」であるという特権から見放されたところに住んでいる。

 彼らは、子供のままでいることを選んで窮屈なモラトリアムの中で暮らすか、おっさんになる決意を固めて社会に出る道を選ぶかの、いずれかを選択しなければならない。こんな人たちにデモが組織できる道理は無い。  なんとなれば、デモを組織する人間は、社会に対峙していなければならず、しかも社会に飲み込まれていてはいけないからだ。
 つまり、「個」として独立していないと、デモに参加することは不可能なのだ。

青年がいなくなった日本と欧米のデモ:日経ビジネスオンライン
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